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悼襄王(とうじょうおう、? – 紀元前236年、在位紀元前244年 - 紀元前236年) は、中国戦国時代の趙の第9代君主。姓は赢、氏は趙、諱は偃。孝成王の子。 長年の功臣廉頗を年老いたとして退け、名将李牧や学人龐煖ら新しい将軍を起用した。治世には得失が有り、長平の戦いの大敗を起因とする衰亡は止められなかった。 == 在位中の出来事 == 趙孝成王21年(紀元前245年)、孝成王は相国の信平君廉頗に魏の繁陽を討たせ、占領に成功〔『史記』「趙世家」孝成王二十一年〕〔『史記』「廉頗藺相如列伝」〕。このとき、丁度、孝成王が崩御し、子の偃が即位した(悼襄王)〔。悼襄王は将軍を武襄君楽乗に交代させたが、廉頗はこれを不満に思い、楽乗を攻撃し敗走させた後、魏に亡命した〔〔。後年、趙王は廉頗を呼び戻そうとしたが、廉頗を嫌っていた郭開の謀略により沙汰止みになった〔。 趙悼襄王元年(紀元前244年)、魏に対し大いに備え、平邑~中牟の道を通じようとしたが、成功せず〔『史記』「趙世家」悼襄王元年〕。 2年(紀元前243年)、孝成王の代に匈奴への守備隊長として名を馳せていた李牧〔を将軍として起用し、燕を攻撃させ、武遂と方城を落とす〔『史記』「趙世家」悼襄王二年〕〔『史記』「六国年表」〕(趙悼襄王元年=紀元前244年説もある〔)。 同年、秦が春平侯(または春平君)を招いたが、泄鈞が秦相の文信侯呂不韋に進言するには、「春平侯は悼襄王の寵愛を受けていたため、趙の郎中に妬まれ『春平侯を秦に入れさせれば、秦は彼を拘留するだろう』と謀られ、秦に送られました。彼を留めてしまっては、趙との交流を絶ち、さらに趙の郎中の思惑通りになってしまいます。ここは、春平侯を返して、代わりに平都侯を留めるのがよいと思います。さすれば、趙王は春平侯の言を快く聞き入れ、さらに領地を割いて平都侯を贖うでしょう」と言ったので、呂不韋は春平侯を趙に返した〔〔『戦国策』「趙策」趙策四〕。 同年、韓皋の城市を築く〔。 同年三月、人質交換により太子が秦から帰る〔〔『史記』「秦始皇本紀」秦始皇四年三月〕。 3年(紀元前242年)、武霊王の代から兵家・縦横家として高名であった学者の龐煖(龐煥)〔『漢書』「芸文志」、『鶡冠子』「近迭」「世賢」「武霊王」〕を将軍として起用、これを侮って攻めてきた燕軍の2万を伐ち、将軍劇辛を生け捕りにして殺す〔〔『史記』「趙世家」悼襄王三年、「燕世家」今王喜十二年〕。 同年、趙の宰相と魏の宰相が柯で会見し、同盟を結ぶ〔(魯荘公と斉桓公の故事に因むか)。 4年(紀元前241年)、龐煖を将軍として趙・楚・魏・燕の四箇国の精兵を率いて秦の蕞を攻めさせたが、陥落させる事ができず、そのため兵を移して斉を討ち、饒安を取る〔『史記』「趙世家」悼襄王四年〕。なお、同年に楚の春申君も合従軍を率いているが函谷関で敗退している〔『史記』「春申君列伝」〕。 5年(紀元前240年)、傅抵を将軍に任じ、平邑に配置する〔『史記』「趙世家」悼襄王五年〕。また、慶舎を将軍として、東陽河外の軍を率いて、河梁を守らせる〔。 6年(紀元前239年)、秦将の長安君成蟜(秦王政(後の秦始皇帝)の弟)が趙に寝返ったため、饒に封じるが、成蟜は秦の攻撃を受け屯留で戦死する〔『史記』「秦始皇本紀」始皇八年〕〔『史記』「趙世家」悼襄王六年〕。 同年、魏が趙に鄴を譲渡する〔。 8年(紀元前237年)、趙と斉の使者が秦を訪れ、酒宴を開く〔〔『史記』「秦始皇本紀」秦始皇十年〕。 9年(紀元前236年)、龐煖を将軍として燕を北伐し、貍・陽城などを取る〔『史記』「趙世家」悼襄王六年〕〔『韓非子』「飾邪篇」〕。しかし、その隙に秦の将軍王翦・桓齮・楊端和の攻撃を受け、鄴・閼與など九城を失う〔〔〔『史記』「秦始皇本紀」秦始皇十一年〕。龐煖は趙を救わんとして南下するが時遅く、鄣一帯を失う〔。 この年、崩御し、子の遷が即位(幽繆王)〔。幽繆王は暗愚な王であり、その代に趙は滅亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悼襄王 (趙)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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